父の最期の四日間

2025年2月10日の昼、13:31に父が自宅にて永眠しました。満68歳でした。

父は去年の年末、肝細胞ガンによる合併症、特に肝性脳症で意識が朦朧としてしまい救急搬送からの入院を二度立て続けに繰り返しておりました。私は遠方に住んでいることもありあまりその時には関わることが出来なかったのですが、年末退院し、年明けに再度病院で診察を受けた際、「このままで家に返すわけには行かない」というお医者さんの言葉でまた再度入院をしたのです。その時点でお医者さんには余命宣告をされていました。それが、保って一年、それが6月の誕生日までは、4月までは、2月23日の演奏会に出られれば、それがなんとか見に行くことができれば…とどんどん希望を持てる期間が短くなっていき、2月の7日。

 私は車通勤なのですが、朝実家の母とハンズフリーで通話しながら出勤する癖がありまして、そこで、「もうお父さんそんなに長くないかもしれない」と言われまして、母に職場の電話番号を伝えたのですが、その日の午前中に私のホーム店舗から巡回先に電話があって、「今日の今日かよ?!」と慌てたのですが。

母「お父さんね、もう治療が出来なくてね、今なら家に帰れる(透析の治療のための繋ぎの穴を開ける手術が終わった直後だった)って言われたから家に帰ってくることになった。」
浅井「そっか。わかった。」

 治療が出来ずに家に帰るということはもう後は死を待つだけなのだろう。今すぐに行っても私には何も出来ないかもしれない…。
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 少し考えて、午後から早退することにしました。なんとなく嫌な予感がしたからというのもあります。そこで、お父ちゃん(旦那)と坊主(息子、中3)に早退してもらい、急遽関西へ三人で帰省することにしました。その日は午後から中部地方で大雪という予報が出ていたので、昼に出る決断をした私たちは何か神がかったタイミングだったのかもしれません。お父ちゃん(旦那)がすごく頑張って走ってくれて、その日の深夜になんとか実家に辿り着くことが出来ました。

 父は仏間にでん、と据えられた介護ベッドに横になり、細切れ睡眠で寝たり起きたりで身体も動かせない状態でしたが、会話は普通に出来ました。ただ、腹水がたまり、息は苦しいし腕も上げるのがしんどい、自力では上体を起こすのも難しいといった状況でした。その日は実家に泊まり、透析やおむつ替えなどを手伝ったりしながら翌日の朝を迎えました。

翌日の早朝

父「トイレに行って尻洗いたい」

母、浅井「mjd?!」

浅井「お父ちゃん、坊主、悪いけどじいじをトイレに連れて行くの手伝って!」

寝てた坊主とお父ちゃん「mjd?」

【ちょっと冷静に書けるかわからないのでいくつかに区切ることにします。】

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